英文解釈こそが、英語の試験の中核だった。スピーキング、ヒヤリング、ライティングは試験にはあまり縁の無いものだった。少なくてもこれが、私が学生だった頃の英語の試験だった。短い文章でも怪しいのに、長文読解などできるわけが無い。ここでモノを言うのはやはり、択一問題だった。現在の英語の試験はヒヤリングにも力を入れているとは聞くが、ヒヤリングの方が簡単なのではないだろうか?私が覚えている長文読解はどこかの新聞の社説のようなものだった。これはネイディブでもすぐには理解できるようなものではなかったと思う。難解な長文読解を英語もろくに聞けない、喋れない学生に理解しろと言うほうが無理だ。なぜこのような話をするのかといえば、「アメリカ人の頭の中はコンピューターのように動いている」と私の時代の学生たちは考えていたからだ。あれだけ難しい長文読解が出来て、それを一瞬で言葉にしてしまう。アメリカ人の頭の中はコンピューターのように、速く正確に動いているに違いないと。それともう一つ、外人の定義は背の高い人だった。さて、逆から考えてみると、外国人が日本語を習う時も、あれだけ難解な日本語を日本人は瞬時に理解して話すのだから、天才に違いない、と思っているかもしれない。そして日本人の定義は背の低い人かもしれない。身体的な特徴はともかくとして、自分が知らない言葉を話す人を見ると、その人は頭がいいのかと勘違いしてしまう。わからないものに対してはそのまま捨てておくか、尊敬の念を抱くのかどちらかになる。日本の社会は、頭のいい人、つまり学校で勉強の出来る人、算数国語理科社会などが出来る人を崇めてしまうきらいがある。英語が出来る人も尊敬されてしまう。そもそもこの辺がおかしい。学校の勉強程度なら、出来る人は頭がいいのではなくて、出来ない人よりも努力しているだけのことだからだ。
話を長文読解に戻すと、日本人は英語に対して間違ったアプローチをして、長文読解に挑戦している。富士山に登るには登山道があり、それなりの装備が必要だ。私が学生の時に経験した長文読解はTシャツ一枚で、がむしゃらに山肌にしがみついているようなものだった。正しいアプローチは登山用の服装と登山靴で登山道を登ることだ。正しいアプローチとはいつも私がくどくど言っていることで、単語やイディオムを無限に増やし、ヒヤリング力を高めることだ。英語はしゃべるように書かれている。だから、英文を見たら「英語の音が聞こえてくる」のが正解で、それがどのような日本語に相当するかを考えることが英文解釈だとおもう。
5:15 I know this might seem like we're over-exaggerating or it might be over-preparing.I really hope we're
over-preparing. これが
取り越し苦労になることを心から願っているよ。
Super Typhoon Hagibis hits Japan: The Biggest Storm of the Century