富岡八幡宮とかいう有名な神社でのいざこざがちょっとしたニュースになった。昔から医者と坊主は丸儲けとか、医者と坊主にスケベが多いとか言うが、金は捨てるほどあるという意味なのだろう。宗教はおいしいビジネスであることをこのようなニュースで確認しなければならない。どこのお寺、教会、にいっても最後に対面するのは神や仏ではない。賽銭箱だ。宗教とはつまりカネ、ゼニのことだ。富岡八幡宮での事件は宗教とはドロドロした汚いものであることを証明している。話は変わるが、昨日はビットコインはお金ではなく通貨だといった。今日は宗教は金目当てだと言った。そもそも何がお金なのだろうか?調べれば、お金には色々な定義があるが、最終的には普遍的な使役の権利(つまり、いつの時代でも人を使える権利)ではないかと思う。だから、電気がなければビットコインもへったくれもないのだから、お金とは呼べない。ドルや円も通貨として利用されてはいるが、100年後、200年後に現在のものが通用するかどうかはまったくわからない。戦後に百姓が偉くなったのは日本銀行券のような紙切れを沢山持っていたからではない。農家は米や野菜を育てていたからだ。米や野菜にはそれ自体に価値があるが、すぐに腐ってしまう。だから、お金とは呼びにくい。真のお金はやはり腐ってなくならず、いつも時代でも物々交換が可能な金と銀だろう。1:38 history has shown that fiat currencies eternally to self-destruct, I mean, and they always go back to gold. gold, if you pick up a coin that was minted 6,000 years ago, you'd still have your money. if you pick up a piece of paper printed a year ago might be worth half its value. 不換通貨は歴史が証明するように自滅の道をたどるのが常だ。金は6000年前に鋳造されたものでも、今日お金として通用する。一年前に印刷された紙幣は現在ではインフレで購買力が半分になっているかもしれない。