2013年12月27日金曜日

聖書は聖なる書ではない


聖書は聖霊が降りたことにしてある人々によって書かれ編纂された、間違いが目立つ書ということができる。聖なる書物という意味ではない。2週間ほど前にエホバの証人と思われる二人の女性が訪問してきた。ちょっと話を聞くとこの二人は聖書の知識がかなり乏しいと思われた。キリストを裏切ったイスカリオテのユダが二通りの死に方をしていることや、細かい数字の桁が違っていることなどまったく知らないようだった。聖書が矛盾に満ちているのは当然で、要は今のようにコピペができないので、写経ミスが目立つといえばわかりやすいだろうか?聖書でいつも感心することは「初めに言葉があった、言葉は神であった」という箇所だ。これは普遍の真理だと思う。ペンは剣よりも強し、言葉は武器なのだ。しかし、聖書では言葉はかなり悪用されている。現代においては言葉、イコール、世論、イコール、民意だが、聖書の時代の言葉とは神の言葉だけだからだ。つまりいつも命令形だった。聖書にはいろいろ書いてあって面白い箇所もあり、教えられる箇所もある。しかし聖書の目的は支配される人間を作ることにあった。支配する神の後ろに隠れてやりたい放題の人間にとっては神こそが錦の御旗であり聖書はご老公の印籠であった、、、、、またいつものように長々とふってしまった。聖書において言葉とは愚かな人間にインプットするもので神(とその後ろで暗躍した一握りの人間たちの)専売特許品だったことを頭の片隅においていただければそれで結構。聖書を読むときは英語学習が目的という本道を踏み外してはならない。

参考リンク
http://bridge-english.blogspot.jp/2012/05/blog-post_7084.html 聖書の読み方
http://bridge-english.blogspot.jp/2012/01/blog-post_8269.html 英語の悪い影響